略年譜
西暦
年齢
  出来事
1900
0
7月4日、石川県江沼郡作見町村字片山津(現在の加賀市片山津温泉)に、父・卯一、母・テルの長男として生まれる。
弟に治宇二郎、妹に富子、文子、武子、芳子あり。生家は呉服屋雑貨の店を営んだ。
1906
6
大聖寺町の母の実家三森家に預けられ、京逵幼稚園に入園。
1907
7
大聖寺町立錦城尋常高等小学校に入学。九谷焼の名工・浅井一毫宅に下宿。
1908
8
この年から小学校卒業まで、旧大聖寺藩主の家令で親類の松見助五郎宅に下宿。
西遊記などの読書に熱中する。「百事如意 中谷八才春」の書が遺存。
1911
11
教師のカント・ラプラスの星雲説に深い印象を受ける。この年描いた竹の絵が遺存。
1913
13
小学校を卒業。父卯一死去。
県立小松中学校に入学し、寄宿舎生活。ボート部に入る。
1919
19
第四高等学校に入学。弓術部に入部。
1921
21
田辺元の『最近の自然科学』を読み、物理学を志望する。
1922
22
高校を卒業。東京帝国大学理学部物理学科に入学。
1923
23
寺田寅彦に物理実験の指導を受け、実験物理学を専攻する機縁となる。
1924
24
創刊された東大「理学部会誌」に随筆「九谷焼」を書く。
1925
25
大学を卒業。理化学研究所の寺田研究室の助手になり、電気火花の研究を行う。
1927
27
東大工学部講師を兼任。北海道帝国大学に新設の理学部教授候補になる。 藤岡作太郎の長女・綾と結婚。
1928
28
イギリスに留学。夫人・綾がジフテリアで死去し、異郷で訃報に接する。
キングスカレッジでリチャードソン教授の指導を受け、長波長X線の研究を行う。
1930
30
北大理学部助教授として札幌に赴任。
1931
31
長波長X線の研究により京都帝国大学から理学博士の学位を受ける。
(寺垣)静子と結婚。
1932
32
教授に昇任。雪の結晶の研究を開始する。
1933
33
十勝岳の山小屋白銀荘で天然雪の観測を開始する。
1935
35
北大に常時低温研究室の建築が落成。
1936
36
3月12日、人工雪の製作に成功する。
体調が悪く、家族とともに伊東温泉の別荘を借り、2年間の療養を始める。
1938
38
病名が肝臓ジストマとわかり、武見太郎の治療を受ける。
最初の随筆集『冬の華』と、『雪』(岩波新書創刊時の1冊)が出版される。
1939
39
制作指導した東宝文化映画「Snow Crystals」が完成。ワシントンの第3回雪委員会に送って上映され、感謝の決議文が届く。
凍上の研究を開始。
1941
41
雪の結晶の研修に対し帝国学土院賞が授与される。北大低温科学研究所が発足。
太平洋戦争開戦。
1943
43
ニセコ山頂に着氷観測所が完成。零戦を運び上げ、航空機着氷防止の研究を行う。
1944
44
根室で霧を消す研究を開始。
1945
45
終戦。
1946
46
農業物理物研究所が発足し、所長となる。
1947
47
立春に卵が立つと報じられる中、実験でその誤りを正し、人類の盲点の一例と指摘。
石狩川の洪水の総合調査を行う。
1948
48
大雪山忠別川流域の積雪水量調査を行う。
1949
49
『雪の研究ー結晶の形態とその生成』(岩波書店)が出版される。後に岩波映画製作所となる「中谷研究室」プロダクションが東京で発足。
国際雪氷委員会の招きで、3ヶ月間アメリカとカナダへ出張。TVAなどに出席する。国際雪氷分類委員会、雪氷永久凍土研究所の設立準備会議などに出席する。
1952
52
アメリカの雪氷永久凍土研究所(SIPRE)の主任研究員となり、2年間、家族とともにシカゴ郊外のウィネッカに住む。
アラスカの氷河の単結晶氷を使って、チンダル像と氷の力学的変形の研究を行う。
1954
54
アメリカのハーバード大学から『Snow Crystals, natural and artificial』が出版される。
片山津町の名誉町民として表彰される。
1956
56
NHKの講座で「科学の方法」を9回にわたり放送。後年、岩波新書として出版される。
ハワイ島のマウナロイア山頂で雪結晶の観測を行う。
1957
57
アメリカの国際地球観測年の遠征隊に参加し,初めてグリーンランドへ行く。その後、毎年夏の1〜2ヶ月、北緯78°の観測所サイト2で、氷冠の雪氷研究を続ける。
文藝春秋愛読者投票で一位になり、名誉賞を受ける。国際雪氷委員会の副委員長に選ばれる。
1959
59
アメリカのウッズホール国際雲物理学会に出席。北極海の氷島T-3を視察。
1960
60
還暦祝賀会が行われ、「助六」を踊る。アラスカのメンデンホール氷河を視察。
東大病院で前立腺癌の手術を受ける。北大理学部勤続30年で表彰される。
イギリス南極地名命名委員会が南極半島沿いの小群島に「ナカヤアイランズ」と命名。
1962
4月11日、骨髄炎のため死去(享年61歳)。正三位勲一等に叙せられる。